当ブログではちょいちょい卓球本を紹介しているんだけど、「卓球本ではないが卓球に関することが書かれている」という本も紹介していきたいと考えている。
本日はそんな本です。
テレビでもすっかりおなじみの、明治大学文学部教授の齋藤孝先生の『すすっと瞑想スイッチ―疲れにくい心をつくる』という本。
情報が氾濫する現代で人々は常に課題に追われ忙しく働いている。
次々と降りかかってくる懸案事項に振り回され、ストレスが溜まっていく。
それは体調不良や病気の原因ともなり得るものなので、そのままにしないで「心のメンテナンス」をしなければいけない。
齋藤先生はその方法として「瞑想」を勧めている。
瞑想と聞くと、座って目を閉じてやるイメージがあるが、そればかりが瞑想なのではなく、日常生活の中のあらゆる行動を瞑想的に行うことができるという。
齋藤先生はこれを「瞑想スイッチを入れる」と言っており、本書では瞑想スイッチを入れる57の方法を紹介している。
例えば「好きな絵を見る」「バッハの音楽を聴く」「古いものに囲まれる」「風に身を任せる」などである。
そしてそ中のひとつに「卓球のラリーをする」があるのだ。
齋藤先生は卓球やテニスのような球技が好きで、学生時代からずっと続けてきたそうだが、齋藤先生曰く、その面白さは瞑想に近いものがあるという。
卓球はせかせかしているようですが、実は瞑想トレーニングにうってつけです。
体育というよりも、心の練習なのです。
激しくいろいろなコースに打ち分けてはダメです。
相手の構えているところに打つというルールで、二人で延々ラリーを続けるのが基本です。
卓球の上手な人は、ラリーのときリズムに乗っています。考えなくても身体がちゃんと動いている。
あれをしなくちゃ、これもしなくちゃ、いまのはこうすればよかった……などと、いちいち考えてから体を動かしている状態は、瞑想的とはいえません。
ミスしたときに「アーッ!」と叫ぶのは論外です。
(中略)
私はテニスのコーチをやっていたことがあります。テニスで瞑想状態に入るためには、かなりのテクニックが必要です。
テニスのラリーを長く続けるのは、なかなか困難ですし、たいていはコートを走り回ってアタフタします。
その点、卓球は身体が自然に動く状態に入りやすく、はるかに瞑想を体感しやすいのです。
上手な人が相手をして、いい位置に球を打ってあげさえすれば、小学生でも打ち返すことができます。
「カンカンカンという音を聞いて、この音を繰り返すんだよ」と指導すると、その子のまわりに、修行して悟りをひらいた高僧のような静けさが漂ってきます。卓球の音だけが静かに響く空間は、瞑想的です。
子どもの頃から瞑想状態を体感させるためにも、卓球を小学生の必須科目にするのもありだと思います。
学校教育の必須科目と言えば、ダンスが取り入れられたことが記憶に新しいが、齋藤先生の言うように、本当に瞑想状態を体感できるのだとしたら「卓球必須科目化」は確かにありかもしれないね。事故の危険性もないし。
また、齋藤先生はこうも言っている。
「瞑想とは、卓球でいえば自分がボールそのものになること」
う~ん、なんだかよくわからんが深い気がする。
つまり、カコンカコンと打ち合っているうちに、「心が落ち着き、静けさに包まれ、時間がゆっくり流れていると感じられる」という状態になることが、卓球で瞑想を体感するということのようだ。
ガチのプレーヤーにはとてもこんな余裕はないが、趣味で卓球を楽しんでいる人は、試しに瞑想状態になることを意識して打ってみてもいいかもしれないね。
そう言えばカットマン同士の試合は観ている方も瞑想状態になりそうな時があるよね。
ひょっとすると促進ルールがなかったらそのまま悟りを開いちゃうかもしれないね。
てなわけで、私も機会があればラリー瞑想法を試してみたいと思います。
ふと思ったが、ひたすらサーブ練習をするのも瞑想的な行為のような気がする…。
う~ん!、まさにラーリ中は白い玉だけに意識が集中し、雑念がない!
これまさに瞑想だ!と直感した。
私は座禅を組んでやるのは苦手です
拷問のように思えます
静的より、動的があってますし、よく理解できます
active meditationさん
確かに座禅は慣れていないとしんどいでしょうね!
「卓球瞑想法」が流行れば多くの人のストレスが軽減されて、今よりちょっとでもいい感じの世の中になるかもですね(笑)
現代人には苦行は続かない、楽しむながらでないと、続きませんね
でも、卓球も試合になれば、なんとしても、<勝たねば>の強欲、エゴの塊になり、
瞑想とは正反対になってしまいますね
私は勝敗のない<ラリー>を正確に打っているときに、自分がその白い玉になり切れます
そのとき、<ああ、瞑想だ!>、と充実した気持ちになる!
禅寺で何回も座禅しても、苦痛なだけでした。
まったく、瞑想スイッチは入りませんでした。
ある動的瞑想の指導者はダンスに例えれば、<ダンサーから>、<ダンス>そのもに、
なれ!と言ってます
active meditationさん
確かに試合になれば瞑想気分になる余裕はありませんね(^^)
ダンサーからダンスそのもになるというのは納得です。
「選手」から「卓球」そのものになるということと同じですね。
つまりは白い球になるということ。
ノースターではなく、できれば3スターのごとく上質な境地に入れたら完璧(笑)
瞑想こそ、自己(エゴ)を消す究極的な癒しですね
これ以上はないでしょう、ラリーの相手も、同じようにトランス状態になりますね
最高!です
瞑想卓球大好き!さん
まさにそれですよねぇ。
瞑想ラリー最強最高です!
人間は古今東西から、なぜ 競って、勝者を尊ぶのか?
スポーツ競技にはすべて勝ち負け/順位がある、差別社会ですね
そんなことより、順位などどっちでもよい、自分が楽しい!心やすらぐ!ほうが平和では?
ローマの市民は剣闘士同士の殺し合いの賭けを楽しんだ——なんと残虐な!
BOXING他の格闘技はその名残りでは?
世界新記録—-なんの意味あるの?
スポ-ツの勝敗は差別社会/格差社会をつくるのか?—–ちょっと言い過ぎですね?(笑)