今回紹介する卓球本はコチラ
ピンポンさん 異端と自己研鑚のDNA
著者は、今や卓球ファンにはお馴染みのスポーツライターの城島充さんである。
日本の卓球界だけにとどまらず、「世界の卓球界の父」であった荻村さんであるが、選手としては、シングルスで2度の優勝を含め、12個の世界タイトルを獲得。
プレーが途切れたとき、荻村少年はズボンのポケットに突っ込んでおいたコッペパンの先をちぎり、その底から取り出したマーガリンを少しつけて口に放り込んだ。そしてそれをガムを噛むようにくちゃくちゃ口の中で咀嚼しながら、汗だくになってラケットを振り続けていたのだ。二十分か三十分に一度、口の中のパンが溶けてなくなるたびにその行為を繰り返す姿は、久枝に奇異な印象しか与えなかった。
【親子でも友達でもない関係】
荻村さんと久枝さんは本当に不思議な関係である。
荻村さんは、久枝さんと出会った高校生時代から、他人へ厳しく接する人だったそうで、武蔵野卓球場の常連たちで作った「吉祥クラブ」のチームメイト、大学の卓球部の後輩、そして奥さん。
時に「非常」とも思えるような厳しさで周りの人達に接する荻村さんは、久枝さんともしょっちゅう口論をしていたという。
後にタマスの専務取締役となる久保彰太郎さん(吉祥クラブのチームメイト)に、荻村さんは「僕だっていろんな人に、恋人に接するように優しく接したいと思う。でも、できないんだ」と言ったという。
1965年のリュブリアナ大会では、選手兼監督という前代未聞の抜擢をされた荻村さんは、「毎日、自己記録を更新するんだ」を口癖のように言いながら、峻烈を極めた合宿を敢行。
倒れる選手が出るほど、代表選手たちにハードな練習を課した。
そして吉祥クラブの面々が武蔵野卓球場を離れていった後、青卓会というクラブを新たに立ち上げるが、荻村さんは、代表レベルに匹敵するような厳しさをこの小さなクラブに求めるようになり、歯車が狂っていく。
練習の厳しさはもちろんだが、青卓会の現役選手には、アルコールや煙草はもちろん、コーヒー、男女交際まで禁止したという。
荻村さんの現役時代の練習量とその内容はとにかく凄まじく、当時を知る人は「常軌を逸している」とまで言うほどで、それをやり通した人であるからこそ、世界で勝つためには並の努力ではダメなのだということを知っているのである。
そして、荻村さんに反発する古いメンバーや久枝さんとの間に亀裂が入り、この溝が埋まるまでに5年という歳月を要することになる。
ちなみに、卓球王国の編集長である今野昇さんも青卓会のメンバーだったようで、荻村さんの自宅で飼っていた柴犬に右手を噛まれた今野さんが包帯を巻いて練習場へ行った際、荻村さんに「卓球選手がラケットを持つ大事な手を犬に噛まれるなんてどういうつもりだ」と怒鳴りつけられたというエ
ピソードは思わず笑ってしまった(本人にとっては笑い事ではないだろうが)。
【開場50周年】
そして月日は流れ……。
享年62歳。早すぎる死であった。
久枝さんは言う。
「卓球選手としては尊敬していても、心の底から伊智朗さんのことを好きだっていう人は少なかったんじゃないかしら。でも、伊智朗さんのことを嫌な奴だって思った時点で、もうその人も伊智朗さんの影響を受けているのよね」
荻村さんが現役時代に自分に課した、常軌を逸した猛練習。
そして指導者となってから選手たちに与えた峻烈な試練。
これらは世界の頂点に立つことだけを考えた、荻村さんの卓球哲学の神髄である。
しかし、荻村さんが追求した、厳しく自分自身を追い込む「荻村流卓球道」をより進化させた、「21世紀の根性論」「近代的なスポ根」なるものを確立し、圧倒的な練習量と厳しさで鍛え上げる、新たな根性卓球が、現代の日本卓球界が中国を倒すためのひとつの道であるかもしれないという気もする。
まあ、言うのは簡単だけれどね……。
武蔵野卓球場は、もう何年も前にその歴史に幕を閉じたそうだが、50年以上もひとつの卓球場が運営され続けたという事実は、本当に本当に凄い事である。
では、最後に、独特の感性を持った荻村さんが、独自の言い回しで卓球について語った言葉を、本書より抜粋してご紹介。
「画家はキャンパスに絵筆で、バイオリニストは音で宇宙を表現する。俺たちは卓球で宇宙を表現するんだ」
「俺たちはただ勝つために卓球をやるんじゃない。人間の文化を向上させるために、ラケットを振るんだ」
こんにちは。私は荻村先生の晩年約三年程、先生主催の卓球教室にコーチとして師事してました。私は何時も叱られてましたが、荻村先生の影響は大きく今も卓球の取り組み姿勢のベースとなってます。
教室が終わってから私達コーチ陣に何時も中華料理をご馳走になり今も懐かしい思い出です。
ここだけの話ですが、食べ終わってから先生の運転で卓球場まで送ってくれるのですが、以外と先生の運転は荒く車酔いすることが度々ありました(笑)
オガさん
ええっ、それは凄いですね!
一目でいいからそのお姿を拝見したかったとの思いがありますが、食事をしたり、車で送ってもらったりなんて羨まし過ぎます。
「トタン屋根の猫」と言われたフットワークの方なので、車の運転も激しかったのかもしれませんね(笑)。
本当に凄すぎるお方です。
こんにちは。
卓球のレジェンド、立志伝中の人荻村伊智朗。いろいろなエピソードを残しているがプレイヤーであった時代と、その後の卓球フィクサーとしての行動がイメージとしてつながっていかない。1センチの厚さのスポンジラバーとピンポン外交の落差というか、うまく向き合えない。つまりそばに近寄りがたいっつう感じなんですよね。
しかし1956年に氏が監修にあたり日大芸術学部が制作した「日本の卓球」という映像は当時としては群を抜いたドキュメンタリーであり、(以前はユーチューブで見られたのですが)氏の卓球に対する情熱とセンスを感じさせてくれます。荘則棟がこの映像をみて、日本卓球を凌駕する前陣両ハンド戦型を編み出したらしーですよ。(最後はモヤさま風に)
ペンドラ直ちゃんさん
もはや卓球界だけでは収まりきらないレジェンドですよね。
本を読む限りでは近寄り難さはあったのではないかと思いますが、実際にお会いしないことにはその器を計ることは難しい方だと思います。
「日本の卓球」は確か海外の映画賞を受賞したドキュメンタリー映画ですね。
本書にも、荘則棟率いる中国代表チームがビデオが擦り切れるほど観て研究したと書いてありました。
今の日本代表も、中国の映像を皆で鑑賞して研究する、なんて機会があればいいのかもしれませんね。
余計なお世話である(ちびまる子風)
私も高校生の頃青卓会に所属して卓球をやってました。荻村さんにも直接打ってもらった事もありました。後にスウェーデン初の世界チャンピオンとなるベントソンが始めて日本に来た時、荻村さんが流暢な英語で指導していたのが印象的でした。あの頃は漠然と偉い人だと思っていましたが、時が経てば経つほどその偉大さが判ってきました。スポーツの天才は他にもいますが、コーチそして非白人初の世界卓連会長、オリンピック委員会理事(?)等の世界で活躍した日本人はいません。サマランチオリンピック委員会会長は後継者に荻村さんを考えていたようで、もう少し長生きしてれば日本人初のオリンピック委員会会長になっていたかもしれません。世に天才と言われる人は多いですが本当の天才は少ない。その稀有な例に出会えた事は私の人生の大きな思い出でもあります。
大額和良さん
おお、それは凄いですね!
ベントソンに指導していた姿も実際に見たというのは、私からすれば映画の中の話のようです(笑)
日本人初のオリンピック委員会会長になっていたかもしれないというのも凄い話ですね!
実現したらまた何か面白いことをやっていたかもしれませんね。
荻村さんほどの伝説的な卓球人はもう現れないかもしれません。
そんな人に一秒だけでも会ってみたいなぁと心底思います。(笑)
現代にも荻村さん並の凄い卓球人が現れることを願うばかりです。